
ゲオルゲ・ハジ
カルパチアの王、左足に宿る魔法
「東欧(バルカン)のマラドーナ」——この異名ほど、ゲオルゲ・ハジという選手の本質を言い当てた言葉はないかもしれない。ルーマニアという、サッカーの周縁に位置する国から現れ、レアル・マドリードとバルセロナという二大巨頭を渡り歩き、最終的にはイスタンブールの空の下で真の輝きを放った。左足から生まれる芸術的なパスとシュート、天才的なゲームビジョン——彼は1990年代のヨーロッパを代表する選手の一人として、今もルーマニア国民の心に生き続けている。
「レジェ(王)」と呼ばれた男の物語を、改めて振り返りたい。
ルーマニアの原石——ファルル・コンスタンツァからステアウアへ
1965年2月5日、ルーマニア南部の都市サチェレに生まれたハジは、幼い頃から卓越したボール扱いで周囲の目を引いた。1982年、17歳でファルル・コンスタンツァへ入団すると、翌1983年にはルーマニア代表に初召集される。さらに1984年にはわずか19歳でUEFA欧州選手権(ユーロ1984)に出場するという、驚異的なスピードでキャリアを駆け上がった。
1987年、国内の強豪ステアウア・ブカレストへ移籍。チームをUEFAチャンピオンズカップ決勝(1988-89シーズン)まで導いたが、そこで対峙したのはサッカーの神様が意地悪で配したかのような対戦相手——アリゴ・サッキ監督率いる無敵のACミランだった。結果は0-4の完敗。しかしこの舞台に立ったこと自体が、ハジの名をヨーロッパ全土に知らしめる出来事となった。
西欧への挑戦——レアル・マドリードとブレシア
1990年のイタリアW杯でルーマニアを20年ぶりのW杯舞台へ導いたハジへの評価は急騰し、ユベントス、ACミランといった欧州の名門が獲得争いを繰り広げた。最終的に白羽の矢が立ったのはレアル・マドリードだった。
マドリードでのキャリアは複雑なものだった。監督がジョン・トシャックからアルフレッド・ディ・ステファノへと交代するなかでベンチを温める時期もあったが、1991-92シーズンには第22節のアスレティック・ビルバオ戦でハットトリックを達成。2シーズン目には35試合に出場し12ゴールを記録した。レアル・マドリードを去る際、ヨハン・クライフは「スペインリーグから素晴らしいプレーヤーが去った。レアルが放出したことが信じられない」と惜しんだという。
1992-93シーズン、ハジをルーマニア代表に初めて選出した恩師ミルチェア・ルチェスク監督の誘いを受け、イタリアのブレシアへ移籍。セリエBへの降格という苦境にも残留を選択し、翌シーズンはチームをセリエA昇格とアングロ=イタリアンカップ優勝に導いた。どのクラブにいても、ハジは最後までチームとともに戦う選手だった。
1994年W杯——「コロンビア戦の一撃」で世界を震わせた
ブレシア時代の最高のハイライトは、クラブではなく代表のピッチで生まれた。1994年アメリカW杯。背番号10を背負いキャプテンとしてルーマニアを牽引したハジは、大会を通じて5試合で3ゴール4アシストという圧倒的な成績を残した。
1994年W杯グループリーグ——コロンビア戦の伝説的ロングシュート
大会第1戦、優勝候補の一角と目されたコロンビアとの一戦。ハジはペナルティエリアからはるか遠い左サイド、約30メートルの位置からGKオスカル・コルドバの位置を見定め、左足を一閃した。ボールはコルドバの頭上を越えるループ軌道を描き、ゴールネットに吸い込まれた。ルーマニアはこの試合を3-1で制し、ハジは2ゴール2アシストの活躍を見せた。さらに決勝トーナメント1回戦ではアルゼンチンを3-2で撃破し、準々決勝のスウェーデン戦ではアシストを決めたが、PK戦の末に敗退した。大会後、ハジはW杯オールスターチームに選出された。
夢のクラブ、しかし出番なし——バルセロナ時代
1994年W杯後、本人がブレシアからナポリへの移籍を望んでいたにもかかわらず、ブレシアのチームマネージャー主導でFCバルセロナへ売却された。子供の頃から憧れていた選手であるヨハン・クライフが監督を務める「ドリームチーム」の一員となる——これ以上ない舞台のはずだった。
しかし現実は厳しかった。1994-95シーズンはリーグ戦17試合4ゴール、1995-96シーズンは19試合3ゴールと出場機会に恵まれず、本領を発揮することができなかった。バルセロナでのスーパーコパ・デ・エスパーニャ優勝という記録は残したが、ハジ自身にとって最も消化不良な時期となった。
イスタンブールで再び燃える——ガラタサライの「コマンダンテ」
1996年、出場機会激減に加えクラブ側からの強い要請もあり、ガラタサライへ移籍。トルコのサポーターはハジを「コマンダンテ(司令官)」と呼んで熱狂的に迎えた。ここでハジは文字通り別人のように輝きを取り戻す。
キャプテンとしてチームを牽引し、スュペル・リグ4回、トルコカップ2回、トルコ・スーパーカップ2回制覇という圧倒的な実績を積み上げた。そして2000年、UEFAカップという舞台で、ハジのキャリア最大の集大成が訪れる。
2000年UEFAカップ——トルコクラブ初の欧州タイトル獲得
準決勝のリーズ・ユナイテッド戦。第2レグでハジは1ゴール1アシストの活躍でチームを決勝へ導いた。迎えた決勝の相手はアーセナル。延長戦でも決着がつかず迎えたPK戦を制したガラタサライは、トルコクラブとして史上初めてUEFAの主要タイトルを獲得した。同年夏には、レアル・マドリードとのUEFAスーパーカップも制覇。35歳のハジが、キャプテンとしてチームをヨーロッパの頂点に押し上げた瞬間だった。
ガラタサライ在籍中の1999-2000シーズン、ハジはリーグ戦だけで14ゴールを記録し、全大会通算25ゴールというチームトップの数字を残した。また同シーズンにガラタサライ対ASモナコのCLグループステージで決めた豪快なロングシュートは、UEFA公式の歴代最高ゴール投票でトップに選ばれるほどの名作となった。2001年、36歳でガラタサライとともに現役を引退した。
代表での足跡
1983年から2000年まで17年間にわたってルーマニア代表に選ばれ続けたハジは、125試合に出場して35ゴールを記録。代表通算35得点はルーマニア歴代最多タイ記録であり、W杯(1990・1994・1998年)とUEFA欧州選手権(1984・1996・2000年)を合わせて6大会に出場した。また国内の年間最優秀選手賞を7度受賞し、2003年には欧州サッカー連盟(UEFA)がユビレー(創設50周年)を記念して選出した「ゴールデンプレーヤー(各国の過去50年で最も優れた選手)」のルーマニア代表に選ばれた。2004年にはペレが選出した「偉大な存命サッカー選手125人」にも名を連ねた。
| 期間 | クラブ/代表 | 主な実績 |
|---|---|---|
| 1982–1983 | ファルル・コンスタンツァ | 17歳でプロデビュー |
| 1983–1987 | スポルトゥル・ストゥデンツェスク | 代表デビュー(1983年) |
| 1987–1990 | ステアウア・ブカレスト | CLカップ準優勝(1989)、リーグ優勝等 |
| 1990–1992 | レアル・マドリード | スーパーコパ・デ・エスパーニャ優勝 |
| 1992–1994 | ブレシア | アングロ=イタリアンカップ優勝、セリエA昇格 |
| 1994–1996 | FCバルセロナ | スーパーコパ・デ・エスパーニャ優勝 |
| 1996–2001 | ガラタサライ | UEFAカップ・UEFAスーパーカップ・スュペル・リグ4回等 |
| 1983–2000 | ルーマニア代表 | 125試合35得点、W杯3回・EURO3回出場、1994年W杯オールスター選出 |
引退後——指導者として、そしてクラブ創設者として
現役引退後のハジは、指導者の道を歩み始めた。2007年に古巣ステアウア・ブカレストの監督に就任したが同年中に辞任。ガラタサライでも2度にわたって指揮を執った。そして2009年、ハジは故郷コンスタンツァに自らの手でクラブを立ち上げた——FCヴィトルル・コンスタンツァ(現FCファルル・コンスタンツァ)である。
オーナー兼監督として指揮を執ったハジは、2016-17シーズンにクラブ初のルーマニア・リーグ優勝を達成。2018-19シーズンには国内カップも制覇した。現役時代と同様、故郷の地でも「王」は輝き続けた。
長男のヤニス・ハジもプロサッカー選手として活躍している。父がガラタサライに所属していた1998年10月22日にイスタンブールで生まれたヤニスは、父が設立したヴィトルル・コンスタンツァの下部組織で育ち、フィオレンティーナ、KRCヘンク、レンジャーズなどを経てルーマニア代表としてプレーした。父と息子がともにルーマニアの10番を背負う——その日は遠くないかもしれない。
「レジェ(王)」という遺産
ゲオルゲ・ハジが残したものは、数字や肩書きだけではない。レアル・マドリードとバルセロナという両雄でプレーしながらも最大の輝きを中堅クラブのブレシアやガラタサライで発揮したという逆説的なキャリアは、サッカーにおける「場所」と「人」の関係を問い直させる。そして何より、30メートルのロングシュートで世界を驚かせた1994年W杯の一撃は、サッカーが単なる競技を超えて芸術たりうることの証明だった。
ルーマニアではいまも「レジェ(王)」と呼ばれ、トルコでは「コマンダンテ(司令官)」として語り継がれる。東欧の片隅から現れ、世界のサッカーファンの記憶に深く刻まれたその左足の軌跡は、時代を超えて輝き続けるだろう。





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